禅の公案
記憶が曖昧であるので、確定的なことは言えないのですが、おそらく思想家の柄谷行人氏の著作の中で次のような内容について読んだ記憶があります。
それはパラダイムシフトについて述べられた箇所で、例え話として引用された禅の公案です。
禅の公案(禅問答)とは、禅僧が悟りを開くために行う修行のひとつとなります。
悟りを開くためのものであるために、非論理的で、極めて抽象度の高いやりとりが展開されます。
理屈で考えている限り、彼らが求める「答え」というものには決してたどり着くことができません。
正解があるのかないのか分からない問答の果てに、禅僧が見出すのは、己自身の気付きとなります。
いくつもの気付きを重ねながら、彼らは物事の本質とはどういうものかに近接していくのです。
ひとつの問答
記憶に残っている問答とは次のようなものです。
ある僧が修行者に尋ねます。
「私が持っている警策があると言えば、あなたをこの警策で叩く」
「警策がないと言えば、その時もあなたをこの警策で叩く」
「警策はあるのかないのか、どちらだ」
教科書通りの見事な公案です。
できれば叩かれたくない修行者は途方に暮れます。
理屈に囚われたままでは、いつまで経っても「答え」は出てきません。

あなたならどう答えるでしょうか。
修行者が出した答え
修行者は考えた挙句に、ひとつの答えを出します。
もちろん、この答えは唯一の正解ではありません。
しかしながら、修行者はこの問答を通じて、確実にひとつの悟りに到達するのです。
彼は、僧の手から警策を取りあげます。
これが彼の出した答えです。
二者択一しかないと思われる状況の中で、いずれにしても自らにとって好ましくない結果しか想像できない場合に、大抵のものは絶望し、思考停止に陥ります。
けれども、悟りを希求する者は、そのような二者択一は、任意の世界(あなたの思い込み)の中での制約に過ぎないということに気づくべきなのです。
どうしても叩かれたくないのであれば、それを避けたいのであれば、二者択一の壁を壊す(無視する)しかありません。
発想法とは
繰り返しになりますが、「発想法」という言葉を聞くとき、この公案を思い出します。
人はものを考える時に、いかに自分で自分を縛っているのかが分かるはずです。
考えるとは、自分の知識や経験を土台とするために、そこからフリーハンドで考えろという方が土台無理があるのかもしれません。
しかしながら、禅問答はそれを超えろと要求します。
自分の力で自分を超えてゆけと促すのです。
発想とは自分の頭を使い自分の頭の枠を踏み越えていく行為に他なりません。
デッドエンドに立ってはじめて、そこからブレイクスルーがはじまるのでしょう。

