哲学的尾行というかくも魅力的な主題を持つ映画
大学院の修士論文作成のために、指導教授篠原(リリー・フランキー)から「哲学的尾行」をテーマとして選ぶよう勧められた大学院生の珠(門脇麦)は、向かいの豪邸に住む編集者石坂(長谷川博己)を偶然に対象として選び、尾行を始めてしまう。過熱する尾行生活にいつしか同棲中のゲームデザイナー卓也(菅田将暉)とすれ違っていくのだが、珠はその生活を止めることができない。やがて・・・
以上がこの作品のあらすじとなります。
静かな映画です。
物理的な意味で。物語の半分は台詞がありません。
以下、内容に言及しますので、予めご了承ください。
原作は小池真理子さんの小説となりますが、わたしは読んだことがありません。
哲学的尾行とは
哲学的尾行とは「理由なき尾行」と劇中で定義されています。
本来的には「何かを確かめる」ために人は人を尾行します。
本作の場合、尾行それ自体が目的となります。
その意味ではこの尾行にも目的は存在することになります。
目的確認のための手段が目的化すること自体は、人生において日常茶飯事です。
であるならば、人は常に哲学的人生を生きるということになるのでしょうか。
珠の動機
珠は自分の生い立ちに遡行し、尾行の理由を見出します。
「自分の中の空っぽ」が尾行によって埋まることがその理由であると吐露します。
どこか捏造された動機臭が漂っています。
観客に納得のいく折り合いをつけて貰う必要から演出は常に妥協を余儀なくされます。
物語の中では行動には動機が不可欠なのです。不可解な行動のワケを観客は常に欲します。
このままでは陳腐が周囲を覆ってしまうために、演出家は石坂にこう言わせます。
陳腐極まりない、どこにでもある話であるな、と。
観客の心情を間一髪で回収しながら、物語は進行します。
忘れてならないのは、石坂が敏腕編集者であることです。
陳腐な物語と両断するそのセリフは、彼の職業意識から発せられるのであるのならば陳腐と化しません。
計算された演出です。
本作は遠目からのシーンが非常に効果的に使用されています。抑えた我慢のカメラワークはフランスのフィルム・ノワールを彷彿させます。
役者という二重生活
ラストシーンは黒地に次のような文字が刻まれます。
あなたは私をどう思っていたのか
私をどうしたかったのか
私は永遠に知らない
これを目にしたとき、なにかの引用であるのかの程度しか、思い浮かびませんでした。
しかしながら、タイトルの意味を考えていたときに、つながったのです。

二重生活とは、役者にこそ当てはまるのではないのか、と。
先の3つのフレーズの、
「あなた」を「観客」に
「私」を「役者自身」と
読み替えるのならば、
この物語は役者の人生の暗喩であるのかと合点がいきました。
- 観客(あなた)は役者(私)をどう思っていたのか
- 役者(私)をどうしたかったのか
- 役者(私)は永遠に知らない
なぜ、物語の終盤に篠原の妻役を代行していた劇団の女性の芝居のシーンに時間をかけていたのかが結びつきました。
蛇足的とも言えるあのシーンは「これは役者の物語である」と見る者に理解させるための演出家の親切心の現れだったのでしょう。
役者こそが人生の尾行者であると映画は語りかけているかのようです。

