太平洋戦争前夜。愛と正義のために人生を賭けた男女の物語
本作は2020年6月にNHKドラマとして制作され、同年10月に劇場版として公開された黒沢清監督作品となります。
第77回ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)受賞の快挙を成し遂げました。日本人監督の作品としては、北野武監督の「座頭市」以来17年ぶりの受賞となります。
劇中に映し出される昭和初期当時の街並みや雰囲気は、さすがに強大な放送局のバックアップの賜物であると思える再現性の高さを誇っています。
本作は、黒沢清監督と師弟関係にある野原位氏と濱口竜介氏の二人との共同脚本であることからも、これまでの黒沢作品とは違ったテイストを醸し出しています。
以下に、本作を鑑賞して考えたことを少しばかり記します。
内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。
あらすじ
以下、公式サイトより引用します。
1940年、神戸で貿易会社を営む優作は、赴いた満州で、恐ろしい国家機密を偶然知り、正義のため、事の顛末を世に知らしめようとする。満州から連れ帰った謎の女、油紙に包まれたノート、金庫に隠されたフィルム…聡子の知らぬところで別の顔を持ち始めた夫、優作。それでも、優作への愛が聡子を突き動かしていく———。
- 貿易会社福原物産を経営する福原優作(高橋一生)
- 福原の妻聡子(蒼井優)
- 聡子の幼なじみである神戸憲兵分隊長・津森泰治(東出昌大)
- 福原物産で働く優作の甥・竹下文雄(坂東龍汰)
- 福原夫婦の知り合いである帝大出身の医師野崎(笹野高史)
狂気の三様態
戦時下の只中において、正義を証明することは極めて困難であるはずです。
それは常に、事後的に発見されるものであり、「勝者」の論理に徹頭徹尾立脚しています。
黒沢は当然に、単純で安直な理解を巧妙に回避し、「狂気」をどこまでも図式的に描出しながら、狂気の(正義と言い換えても同じであるが)ヒエラルキーを無効にしていきます。
演出に力が入りすぎていない分、見事な達成が図られています。
以下に示すように、狂気の三様態をスクリーンに浮かび上がらせます。
優作は、満州の地においてその目で見た、国家が主導する非人道的所業にノーを突きつけます。
これは当然に国家の側から見れば、秩序紊乱であり国に対する叛逆となります。
国家が総力をあげて戦争を遂行しようとする時代において、彼の行動の全ては「狂気」以外の何ものでもありません。
博愛を完徹しようとする優作は、国家に正面から対峙することを選択します。
妻の聡子は、夫の愛情から優作と文雄の計画の蚊帳の外に当初置かれます。
やがて自らの意思に従い夫と運命を共にしようとする聡子は、愛の化身であり殉教者であるといえます。
米国への亡命を目論みながら、船底で見つかるその顔から観客は「愛の狂気」以外の感情を読み取ることが決してできないはずです。
憲兵隊の分隊長である津森泰治は国家の番犬であり、国家的狂気の体現者です。
国に使える者が狂気の時代に正気を保つ唯一の方法は、盲信すること以外にありません。
彼が彼の正義、すなわち国家的正義を疑うことは一瞬たりともないのでしょう。
福原夫妻の知り合いであり、聡子を密かに慕う立場から、ギリギリの親切心を示しますが、彼の軍服は決して彼に「一線」を越えさせはしないのです。
劇中に山中貞雄監督の「河内山宗俊」を上映しているシーンがあります。戦争の犠牲者であり、存命であれば多くの傑作を撮ったであろう山中への追悼の思いが滲み出る演出となります。
狂気の本質とは
以上のような狂気の三様態を示しながら、ダメ押し的に黒沢は「スパイの妻」に狂気の「本質」について口にさせています。
密航が未遂に終わり、憲兵たちの前で夫の愛情(策略)を知った聡子は錯乱し、気を失います。
狂人と診断され、精神病院にある意味、幽閉されている彼女を医師の野崎は訪ねます。
病院関係者と知り合いであることを最大限に利用し、彼は彼女と二人だけの機会を作り出します。
聡子は次のように極めて冷静に自己分析を吐露します。
先生だから申し上げますが、私は一切狂ってはおりません。ただ、それがつまり、私が狂っているということなのです。きっとこの国では。
精神病院に入院している患者の口から出たセリフであることを考慮するのならば、彼女の言葉を字義通りには当然に受け取れません。
今までの黒沢作品であれば、不透明で両義的な演出がここではなされていたことでしょう。
しかしながら、
「きっとこの国では」という最後のフレーズを耳にしたのならば、彼女が狂気よりも正気の世界の住人であることがあなたにも理解できるはずです。
戦争の狂気に蹂躙された日本国においては、誰もが自分は狂っていないと主張します。
その主張は、狂っていないと言わないと気が狂いそうであるという切迫や、狂っていること(同じことであるが狂っていないこと)をどうやって証明できるのだという自棄をいみじくも表出します。
彼女が「狂っている」という言葉を通じて言いたかったこと(黒沢が描きたかったこと)は、おそらく次のようなことなのかもしれません。
狂っていないにも関わらず狂っているとみなされる彼女が言わざるを得ない心情の正当性を担保するものは、この国が狂っているからに他ならないのだが、それは同様に「この国」自身にも当てはまるのではないのかという根源的な「問い」に対して、現代に生きるあなたはあらためて向き合う必要があるのではないか。
そのような「歴史認識」であると思えるのです。
福原夫婦が、野崎のオープカーで疾走するシーンや高価な貴金属・時計を買い漁るエピソードが示すのは、戦争期のもうひとつの真実に違いありません。このような一種の高揚感は、作家坂口安吾の著作の中に多く見られるものです。
黒沢の倫理
コスモポリタンな立場から国際正義を貫こうとする優作の哲学がもたらす結果について、かつて聡子は散々に憂い、優作の信念を翻意させようと言葉を尽くしてきました。
彼の信念が完徹されたことの帰結として、日本列島は焦土と化します。
神戸にも爆弾は投下され、火の海を目の当たりにして、自分たち夫婦の「結論」に彼女は全身を後悔の炎で焼き尽くされます。
ラストシーンの海辺を前のめりに進みながら慟哭する彼女をカメラに収めることが黒沢の「倫理」であることは今更言うまでもありません。
正義を貫くとはどういうことなのか。
狂気は狂気に対して断罪できる立場にあるのか。
繰り返しますが、
聡子の正気=狂気を観客の前に放り投げるその演出が、黒沢の「倫理」に違いありません。
問題作です。機会があれば、ぜひご覧ください。