奈良で出会った鳥
かつて奈良に住んだことがありました。
移り始めてすぐに驚いたのは、わたしが小さい自分に当たり前であった風景が普通にみることができたことですだ。
まさか平成の世で、あの頃の空き地や原っぱや昆虫に出会えるとは思いもしなかった。
驚きであり、単純にうれしかった。
引越しをする前の関東ではまず出会うことがなかったからです。
そのような親密な環境下、うぐいすの鳴き声を耳にしたのでした。
ナイチンゲール(うぐいす)のボイストレーニング
「うぐいす」はうまく鳴けるように練習します。
はじめて聞いたときには、やはり苦笑してしまった。
下手くそ。
ホーホケキョが全くといっていいほど成立していないのです。
鳴き方を鶯が練習している。
話には聞いていたが、まさかリアルで体験できるとは思ってもみませんでした。
休みの日の午後に初めて耳にし、次の週にも耳にしました。
練習の成果は一週間前と比較し、確実に出ているのです。
うまくなっている。
とうとう、その次の週には、見事な鳴き声を披露していました。
わたしが、出会ったのはその一羽だけでした。
その鶯のなき具合が標準以上なのか以下なのかは、不明です。
最後まで、上手く鳴くことのできないホトトギスもいるのだろうか。
なんとなく、いないような気がする。
練習、練習、また練習なのだが
なにかができるようになるには、必ず練習が必要です。
練習の時間が長くなるのかどうかは、習得すべき技術の難易度に概ね比例します。
悲しいことに、いくら時間をかけても習得できない、あるいは習熟が進まないということもあります。
そのようなとき、人は往々にして才能のせいにしがちです。
わたしには才能がないだと、逃げようとします。
努力をこれ以上続けないために、無理やり自分で自分に嘘をつこうとするのです。
うぐいすの教訓とは
うぐいすの練習は、あなたに次のような教訓をもたらすでしょう
- 努力は一定以上の期間継続されないと結果に結びつかない
- 努力の過程で進歩が目に見えないのであれば、挫折しやすくなる
- 努力の過程において他人が介在できる余地はほとんどない
努力の象徴としての鳥に出会えた
努力が報われなくて悔しい思いをした経験のないものはいないはずです。
私自身も成仏しなかった自分の努力をたくさん見送ってきました。
直接的には、即時的には、努力は報われなかったかのように見えます。
それでも、将来的には必ずその人の現在や未来を形作る肥やしになっています。
なぜなら、今の自分は過去の行動の集積に他ならないからです。
現在は、関西を遠く離れているので、優雅なあの鳴き声を聞くことはありません。
仕事が上手くいかないときや落ち込んだときに、ごくたまにですが、
あの頃のへたくそなホーホケキョが頭の中に小さく響きます。
努力の象徴としての鳥が、わたしを慰めてくれるのです。
しっかりしろよ、オッサン、と。