これからの働き方を考えたときにヒント満載の本がある
今回も「AI時代の働き方と法」を読んで、以前から考えていたことの整理ができましたので、以下に綴ります。
毎度、同じことを言うようですけど、本当に示唆に富む書籍です。
法律と現実の齟齬
働き方が変ろうとしている現在、労働を巡る法律が追いつかなくなってきています。
端的に言うと、乖離とまではいかないが、齟齬が生じているもです。
現行の労働法は、工場における労働を前提として体系化されているために、オフィスワーク、特に知的創造的な働き方に対しては、法的有効性に著しく欠けるといわざるを得ない。
結果を出してなんぼのはず
労働法が想定している働き方は、企業の指揮命令の下に、時間的、場所的に拘束されて働くというものです。知的創造性に必要なのは、企業の物理的な拘束で働くことではありません。
知的創造的な働き方における成果は、時間をかければなんとかなるというものでもないはずです。
結果を出してなんぼ。
- 10分間でできましただろうが、
- 自宅のトイレで完成しましただろうが、
提供された労務(成果)がニーズに合致しているのならば、その時間的、場所的背景は一切無関係となります。
自分が自分のボス
知的創造的な働き方は、拘束性が低く(自由度が高く)、成果に応じた処遇を受けるというインセンティブの下で働くことを特徴とします。
成果報酬は、適切な契約の条件下、能力の高さに報酬額が比例するのです。
自分が自分のボスであり、サボればサボった分だけ収入はさびしくなる。
自営業的な、フリーランス的な働き方のイメージであろうか。
長く働けばそれだけで評価されるのか?
現行の労基法は、先に述べたようにその体系のベースが工場労働であるために、時間と賃金が正比例しているとは言い切れないまでも、強い相関関係にあります。
時間と賃金を切り離すことができないのだ。この点は、拘束性が低く(自由度が高く)、成果に応じて処遇するのに適した知的創造的な働き方と相容れないところです。
生産性の低い労働者が残業をすることにより、定時で帰る標準の、もしくは生産性の高い従業員よりも収入が高くなるという悪い冗談が多発します。
笑えない、職場の日常茶飯事。
労働時間が長いことを、無条件に真面目であるとか、あいつはがんばっていると評価したり、
その一方でガンバリを示すために深夜残業、休日出勤が常態化するといった共犯関係が成立している企業風土も珍しくありません。
自覚的であるか否かを問わず、
長い時間働けば将来的に悪くない処遇が待っているとの期待が全くないとは言い切れないはずです。
そうじゃないの?
ここに、時間と賃金が切り離されていない我が国の労働観が特徴的に顕現しているのです。
誤解の連続
知的創造的な働き方という観点からみると、実労働時間に依拠した労働時間規制(とくに割増賃金制度)は、前述のように法定労働時間を超えると、時間と賃金との関係を切断できないという点できわめて硬直的です。
このような考えが一般的であることも作用し、「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入は何度も見送られたのでしょう。
- 曰く、残業代を経営サイドは支払わない気だ。
- 曰く、いつまでたっても帰れなくなってしまう。
冷静な議論が必要です。
ホワイトカラー・エグゼンプション構想のエッセンスは、労働時間規制を撤廃して(割増賃金制度をなくすことが最も重要)、労働時間と賃金を切り離し、労働者の賃金はすべて(最低賃金法や差別禁止の制約は除く)、労使で独自に決定してよいとする点にあります。
給与の支払額を一定にして、労働時間は無制限という雑駁な思い込みが先行する限り、正しい理解も議論も望めないでしょう。
携帯電話の定額パック、かけ放題のイメージだろうか。
そのような非合理は当然ながら法治国家で許されるわけがありません。
労働ビッグバンの到来
契約に基づく成果に対して、どれだけの時間(長短・大小)が投下されようが、時間的拘束性でもって報酬額の価値が変わることはありませんという思想なのです。
簡単に言うと、結果が出ているのなら、10分でも1万円、10時間でも1万円ということです。
10分かかろうが、10時間かかろうが、もはや雇用サイドはそのようなことは気にしない、関係ないのです。
提供された成果と掛かった時間の間に何があろうと、なんらの関心も利害関係もないのだから。
現在の労基法を基準とした雇用形態においては、実際の雇用管理が煩雑・複雑であり、対応に難があります。
ホワイトカラー・エグゼンプションといった段階的、折衷的働き方をすっとばし、総請負化を目指しましょうというところに原理的には帰着せざるを得ない、と思います。
そう、労働ビックバンの到来なのです。
クリエイティビティーの放出
知的創造的な働き方を欲する者、あるいはそれが可能である者にとっては、クリエイティビティーを存分にふるうことのできる働き方が直ぐそこまで来ているといえます。
思い切った簡素化が許されるのならば、月給から時給へという流れであると言い換えられます。
一ヶ月単位であれもこれも成果を出しましょう、駄目なら長い目で見るから翌月ね、という考えは遮断されてしまうのです。
時間当たり、どのようなパフォーマンスが出せるのか?
そこだけが問われる。
労務提供の切り売りというよりも量り売りだ。
生産性の高いものがより多くの収入を得ることができるのです。
自分のボスは自分、自分の雇用主は自分。
そこには、長時間労働もサービス残業も休日出勤も原理的には一切ありません。
繰り返しますが労働時間と賃金が切り離されるとはこのことを指します。
従来どおり、現行の労基法に基づく働き方も間違いなく継続されていくでしょう。
けれどもそれは限定的かつ減少していくこととなるはずです。
時代の流れは、正規、非正規雇用から、知的創造的雇用、非知的創造的雇用へと向かっていくのです。
毎月決まった額が振り込まれるというファンタジーが見られなくなるのは、そんなに遠い未来ではありません。