ポール・ド・マン、理解とは目をつむり思いっきり跳躍すること

投稿日:2016-11-27 更新日:

 

ポール・ド・マン再会⇒

本棚を整理していて、大昔に友人から頂いた書物を目にした。

懐かしい。

当時は頑張って読んだ気がする。

まるっきりの空回りであったが。

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分かるということ

かつて、柄谷行人氏は精神的師と言い得るポール・ド・マンの思想のエッセンスを次のように述べている。

われわれはものが分かったと思う瞬間、″穴″に陥ってしまう。別の言い方をすれば、分かるということは、暗闇の中での″跳躍″に他ならない。 

ド・マンの思想に触れるとき、我々は注意深くなければならない。

ここで言われていることは、一読するだけでは論理的座礁を呈しているようにみえなくもない。

けれども真摯にこの一節に向き合うならば、彼が何を伝えようとしたのか、同じことだが、″何を伝えられないか″を″伝心″しようとしたのかが理解できるだろう。

穴に落っこちる

言うまでなく、「ものが分かる」という経験はありふれている。

我々にとってそれは自明の事柄に属している。

しかしながら、そのような瞭然性にのみド・マンの視線は注ぎ込まれるのだ。

それは、「ものを早計に分かったつもりになることへの戒め」といった「自明」性に対する凝視ではない。

そのような意味にとれば、別の″陥穽″に落ちるだけであろう。

選択と放棄

「分かる」とは、″たったひとつのもの″を選び取る行為である。

すなわちそれ以外の可能性の純然たる「放棄」である。

この必然を人は免れうることができない。

というのも、我々はその「選択」を選び終えることでしか物事が「了解」できないためである。

だが実のところ、その選び取る行為には如何なる根拠も些かの理由もありはしない。

ただ、根拠や理由があるようにみえる(思いたがる)だけなのである。

それは、あまりに巧妙に事後的に見出されてしまう。どんなときも。

ある困難

たとえば、「分った」地点から遡行するとしよう。

最後の最後に根拠や理由に突き当たるはずだというその″論理性″こそが人が落ち入る″穴″に違いない。

しばしば、ありもしない事由や拠り所が「蔽い」となり「塞がってしまっている」場合が少なくない。

必度、論理的であることは「ものが分かる」ということと微塵の関係もないのであろう。

「ものが分かる」とは、″切断された不連続″な行いに他ならない。

幾ら″連続的″に理解を推し進めようとも、ひとは「分かる」という処に行けはしない。

決して予想もできず、見通すことも不可能である絶対的な″困難さ″が、「ものが分かる」という行為には常に付きまとわざるをえない。

と、ド・マンは云い続ける。

光明の瞬間

それは文字通り「奇跡の到来」とでも呼ぶしかないものであろう。

既知が連続する平原を直進するような気軽さからは、われわれは何も「知る」ことができない。

そうではなく、一筋の光りもなき暗闇のなかの、一歩先が断崖である可能性が横たわる只中を飛び出さねばならぬ、そのような瞬間に始めて「ものが分かる」という行為が開かれうるのである。

従って「ものが分かる」とは、″唐突″であり″野蛮″なる一行為に違いあるまい。

優しい声で

何か行き詰まったような感覚が私を無条件に支配するとき、ド・マンのことばが鳴り響んでくる。

「お前さんはものを分かっているのか」と謂われているような気持ちになる。

わかっていません。スイマセン。

水たまりの一滴

ここ十年ぐらいで翻訳書もたくさん出ている。じっくりと取り組むべき知性です。

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