小林秀雄の言う「無常という事」を我々は何ひとつ理解していない

投稿日:2016-11-10 更新日:

 

無常という事を読み直す⇒

先日、小林秀雄の『無常という事』を再読した。

やはり小林は「分からない」ということだけを、できうる限りの精確さで伝えようとしていたのだと腑に落ち、少しばかりうれしくなった。

切れすぎる

文章が「切れすぎる」にもかかわらず、「肝心なこと」だけは書かなかった。

そのために、数多くのあらぬ誤解を今なお受け続けているのも仕方ないことかと、あらためて思った。

例えばそれは解説で江藤淳が引用している青山二郎の次のような発言に代表されるであろう。

 暗い蝋燭を囲んで青山二郎、大岡昇平の両氏と酒を飲んでいた小林氏は、いつもの例で青山氏にからまれ出していた。小林氏の批評が『お魚を釣ることではなく、釣る手付を見せるだけ』で、したがって『お前さんには才能がないね』というのである。 

小林は、″人はどのようにしても『魚』を『釣』ることができはしないのだ″という地点から動こうとはしない。

これを「美的(理論的)問題」と解釈するならば、『才能がないね』という不毛な結論にしか至らない。

小林に対する最大の誤解がここにある。

倫理

動けないのではなく、「分からない」という処から″先″には決して″行こう″とはしなかっただけなのだ。
したがって、『釣る手付を見せるだけ』とは、対象(他者)に対するぎりぎりの倫理的姿勢に他ならないということになる。

『才能』は決まって、いるはずのない『魚』を『釣』り上げてしまい、自らの釣果を競い合っていた。

″ぼうず″である者は黙って釣り糸を垂れ続けていたのだ。
しかしながら、同時代の「分かった」という思想が今日的に″ぼうず″の様相を呈していることは今更言うまでもない。

『才能』を放棄しえる「才能」を授かっていたのは小林だけであった。

喪失

昭和十七年(1942年)に、孤高の批評家はこう述べている。

現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。 

この独歩者は、″常なるもの(日本)″が亡くなることを確信しながら言葉を積み置いたが、われわれが、″常なるもの(小林)″を失くして今年で三十年余りになる。

この国から″好い面持ち″をした老爺がいなくなり始めたのも、ちょうどそのあたりからである。

 

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今も時折読み返します。金を払って読むに値する文章。やはり、凄い。

 

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