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スプートニクの恋人とは一体全体誰のことを指すのか

投稿日:2017-01-29 更新日:

 

スプートニクの恋人を何度も読み返している⇒

初めて読んだときから、もう十五年以上、何度も読み返している。

理由は不明であるが、時々、頁をめくっている。

今回、電子書籍で読めるようになって、また読み返した。

不思議な小説だ。

あらためて、思った。

スプートニクの恋人って誰のことを指すのかと。

本日は、この疑問をきっかけに少しばかりこの小説について考えたことを書いてみます。

尚、既読を前提に書き進めておりますので、あらかじめご了承ください。

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この小説は喪失の物語である

村上春樹の多くの小説がそうであるように、喪失がこれでもかと描写されている。

その喪失は極めて実存的な性格を帯びている。

単に何かが失われてしまったという衣装をまといながら、あくまで根底的で不可避的で理不尽な喪失が描かれる。

実存の基底としての性愛を通して、喪失が徹底的に書き連ねられるのだ。

村上が喪失を主題とする限り、性愛は必然的に小説の表舞台に上がらざるをえない。

まずは、恋人を特定する

「スプートニク」とは、小説の冒頭で、ミュウのことであることがわかる。

ゆえに、ミュウの恋人は誰なのかを特定すればいい。

小説中、ミュウが好きであるとの記述があるのは、次の二人だけである。

すみれと僕。

しかしながら、このふたりのどちらもミュウとは性的関係を持っていない。

恋人と呼ばれる限りは、性的関係は必要十分条件である。

彼ら以外にこの条件に当て嵌まる人物が一人だけいる。

留学中に出会ったイタリア人の男である。

この男とは、いわゆる恋人関係にはないのだが、向こう側のミュウは性的関係を持っている。

その意味で、イタリア人の男を一旦、候補とする。

さらに検証すると

小説のなかで、スプートニクとは「旅の連れ」というロシア語の意味であると説明がなされている。

旅を行ったのは、ミュウとすみれである。

ミュウの旅の連れはすみれであるので、スプートニクの恋人、つまりすみれの恋人は誰なのかといえば、誰もいない。

なぜなら、誰とも性的関係を持っていないのだから。

すみれの旅の連れはミュウであるので、スプートニクの恋人、つまりミュウの恋人は誰なのかといえば、先の通り、イタリア人の男が該当する。

ゆえに、この小説のタイトルであるスプートニクの恋人とは、イタリア人の男を指すという結論をもって、以下話を進めることにします。

スプートニクの恋人=ミュウの恋人=イタリア人の男

イタリア人の男とは何者か

イタリア人の男は次のように描写されています。

50歳前後のハンサムなラテン系の男。

背が高く、鼻のかたちが特徴的に美しく、髪はまっすぐで黒い。

名前はフェルナンド。彼は離婚した独身者。

見覚えがないだろうか。

聞き覚えがないだろうか。

そう、あのハンサムな歯科医である「すみれの父親」に瓜二つであろう。

これはなにを意味しているのか?

あちら側のミュウとは何者か

イタリア人の男と「あちら側のミュウ」との情事を観覧車から目撃してしまったことで、こちら側のミュウは誰とも性的関係を持てなくなり、自分の半分があちら側にいったきりになってしまう。

ゆえに、イタリア人の男とあちら側のミュウの関係性は、イタリア人の男とすみれの父親との類似性を延長し、次のような相同性を持ち得るといえる。

あちら側のミュウとは、すみれを産んだ母親に他ならない、と。

イタリア人の男⇔⇔あちら側のミュウ

すみれの父親⇔⇔⇔すみれの母親

スプートニクの恋人殺し

こちら側のミュウとの性的関係を諦めたすみれは、あちら側のミュウと性的関係を持つために、あちら側に消え去ったのだと、物語はそう語る。

その真相は、あくまで文学的風景のなかに埋没してしまい、読者はどこまでも推測の領域を出ることができない。

しかしながら、村上がそのような痕跡や示唆を文中に散りばめているのであるから、すみれの失踪とはあちら側への旅立ちであったと解釈することには妥当性が生まれる。

あちら側でミュウと恋人同士になるためには、既に性愛の儀式を幾度となく繰り返しているイタリア人の男を排除するしか選択肢はない。

ゆえに、あくまで象徴的に、呪術的に、イタリア人の男はすみれに葬られなければならない。

すみれは語る。

ねえ、わたしはどこかでーどこかわけのわからないところでー何かの喉を切ったんだと思う。

これを全くの比喩と理解してはならない。

イタリア人の男の喉は掻き切られたのだ。

性愛のパートナーの排除により、すみれはあちら側のミュウと結ばれるはずであったが、そうはならなかった。

なぜなら、あちら側のミュウとは、先の相同性の通り、すみれの母親に他ならないからだ。

実の娘にとって母親はどうあっても性愛の対象とはなりえない。

これにより、すみれの八方は塞がる。

永遠の孤独者としての人工衛星スプートニクは、宇宙空間をさまよい続けることになりかねなかった。

が、すみれはこちら側に帰還する。

なぜ?

喪失の仕方

登場人物のすべてが、あらかじめ喪失している。

ミュウはあちらとこちらの世界に分裂している。

しかしながら、すみれも僕も分裂はしていない。

すみれはあちら側に行き、僕はこちら側に留まっている。

物語の最後で、すみれはこちら側に戻ってくる。

少なくともそのように描写されている。

まずは、なぜ、戻ってくる気になったのかが問われなければならない。

理由はふたつある。

・あちら側とこちら側のミュウのいずれとも性的関係性を構築できないことが証明されてしまったことがひとつ。

・もうひとつは、かけがえのないものの存在を実存的なレベルで強く認識したためである。

すみれは言う。

あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身なんだって。

僕は言う。

すみれは彼女にしかできないやりかたで、ぼくをこの世界につなぎ止めていたのだ。

もうおわかりであろう。

彼らの喪失した片割れは、彼ら同士に他ならない。

彼らはひとつになることを運命づけられている。

僕が向こう側に行けない限り、すみれがこちら側に戻るしかない。

しかしながら、そのためには超えなければならない障害がある。

にんじんの登場とその母親の存在

物語の終盤ににんじんの万引きのエピソードが挿入されることには、少なからず唐突感を禁じ得なかった。

なぜ、これが書かれなければならなかったのかの回答をわたしはひとつ自分のために用意することができた。

つまり、僕が不倫相手のにんじんの母親と別れる理由・契機が必要であったからだ。

僕がこちら側の世界で性的関係を持つ相手がいる限り、すみれはこちら側の世界には決して戻ることができない。

そのために、性的関係性を持つ相手は排除されなければならない。

イタリア人の男が排除されたように、血が流れなくてはならないのだ。

いいですか、人が撃たれたら血は流れるものなんです。

にんじんの心に血が流れていたことを、僕と母親は知る。

清らかな血が流れた後、すみれはその座に収まることができうる。

別れによって、帰還のための障害は消え失せる。

後日談

あらためて、この小説の冒頭を読み返すならば、この箇所が非常に穏やかなトーンで統一的に書かれていることに容易に気づくであろう。

もちろん、そこには明確に記述されていないが、いかにもいろいろあったが、今は収まるところに収まっていますといった気配が漂っている。

すみれと僕は、実存が触れ合う場所で、性愛を繰り返す関係に今はあると言えば、言い過ぎになるであろうか。

この小説は、冒頭の部分が最終章の後日談として読むことを可能とする円環的な物語構成を持つ。

それは、まるで、はじまりも終わりもない宇宙空間に呼応しているかのようである。

国民的作家

実存の基底としての性愛をテーマとしたこの小説の主題と展開には見覚えがあります。

漱石です。

時代背景が異なりますので、漱石の場合、制約がどこまでもついてまわりました。

が、扱うその手つきは驚くほど似通っています。

彼らがふたりとも国民的作家と呼ばれていることは極めて興味深いところです。

 

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