時折思い出す、ある別れ、そして特異点としての筒井康隆

投稿日:2016-12-01 更新日:

 

本読み⇒

私よりも数多くページをくった本読みは幾らでもいる。

当たり前だ。

私が口にしたことのない書物を見知っている人たちも沢山いる。

これも当然である。

しかしながら内接した人間の中ではいささか話が違ってくる。

読書の嵩が尋常ではないと気圧された人物と初めて口をきいたのは遠い昔。

それは忘れもしない大学に入ったばかりの頃である。

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ある邂逅

「そのひと」と言葉を交わした時、ほとんどこちらが読んだことのない作家の名ばかりが次から次に飛び出てきた。

私は当時、リーディングキングダムの中央通りを闊歩しているとばかりひとり思っていた。

ただの勘違い野郎です。

なので、なんだか調子はずれで偏りすぎだという感慨を年上の「そのひと」に持した。

が、なんのことはない、当方が狭い路地をふらふらとうろついていただけのことであった。

こういうのを若気の至り大海を知らずというのだろう。

ああ恥ずかしい。

筒井康隆という交叉

そしてふたつの平行線が交叉した特異点というのが、筒井康隆氏である。

この特異点以外はまったく重ならなかった、見事なほどに。

私は中学を卒業するあたりからなにかに急き立てられるように、このSF御三家のひとりを集中して読んだ経験を持つ。

そして「そのひと」の場合は遭遇した時期が私より幾分前倒しであったと記憶している。

中学生の時分?

早熟。

長編よりも短篇のほうが「図抜けている」という感触も互いに一致していた。

亀裂をみること

短篇の名手と呼ばれる書き手は、グッドアイデアを膨らませ、逆算的手つきで物語を編んでしまう技巧に優れている手練れがほとんどである。

そして筒井もそのひとりであるという評価を下す論者も多い。

けれども、ほんの少しばかり違うのではないかと、そのような批評にふれるたびに独り感じていた。

が、はたして、この齟齬を「そのひと」も拾い上げていたのである。

というのも、「寂しい立ち姿」がいつも行間にちらちらと見え隠れしているからにそれは他ならないからだ。

寂しい立ち姿??

はい、これでは説明になってはいない。

中途半端で不親切である。

過剰と過剰

筒井氏はおそらく作品を収斂させてゆく力の存在を心の底からは信じていない。

彼はその力の支点が紛れもなく「壊してしまおう」という陥没点に違いない「事実」に気づいてしまっている。

寂しさがそこに香る。

名手は決してそのような動機に基づかない。

なぜなら、「破綻」を避けることが兎にも角にも目指されているからだ。

筒井は違う。

その逆である。

ただただ突き破らんとするからこそ、首尾一貫した「機能美」をかえって帯びざるをえないことを文体が知っているのだ。

文体が淋しく立っている。

ゆえに、結果として破綻から一番遠くに位置してしまう。

整合性の宮殿が出来上がるというわけだ。

ああ、スラップスティック。

サヨナラ

一年の後、「そのひと」は卒業を待たず早々に大学を離れていった。

色々な都合と不都合の集積がそうさせたらしい。

餞別代りに受け取ったのが、ドストエフスキーの文庫版『賭博者』であった。

なにかを伝えたかったのだろう、多分。

彼が何かに賭けた表示か、私にグズグズせずに賭けに出ろと言いたかったのかは、終ぞ不明である。

因みに、賭博者は読んでいません。

これからも、読むことはないでしょう。

ここからがエピローグである

『YA!YA!YA!』は、読んでいる最中にげらげらと声を出して笑ってしまった最初で最後の小説である。

多分、このようなタイトルであったと記憶するが、自信はない。

書き出しは確か、「やあ、やあ、やあ、田中です、田中です、田中です」と思ったが・・・

そして、「そのひと」がこの一品を好きだったかどうかは、闇の奥に置き去りのままだ。

それにしても、いくつもの「ハロー・グッドバイ」があった。

これから先はもうないのかも知れない。

おかしみとさびしさはどうも確りと手をつないでいるらしい。

どうやら、その後ろをいまも私は歩き続けている。

フラフラと。

非ドストエフスキー的足取りで。

水たまりの一滴

高校生の頃、貪るように読んだ記憶がある。ほんとうに豊かな読書経験だったと思う。

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