Thinking-Puddle

現役人事部長の 雑記blog

秋がどこにも見当たらないので、明石散人を読み直すか 

投稿日:2016-11-26 更新日:

 

コロンブスの卵が立つ⇒

″目から鱗がとれる″と人が口にするとき、そこには新鮮な覚醒が鳴り響いている。

一方、″コロンブスの卵″という格言には「なんだそんなことか」という素直に認めがたい感情が沈殿している。

茹で卵を立ててみろと云われて、一生懸命にバランスをとろうとする度ごとにひっくり返してしまう人々。

コロンブスはその卵の底を少しばかり凹ませて見事にそれを立たせてしまう。

それを目にするやいなや、なんだそれじゃあ話が違うとか、卵に細工をするのはルール違反であると言い募り悔しがる凡庸な心は、自らの不自由さにはやはり目を瞑ったままでいる。

スポンサーリンク

驚きたがるこころ

本来そこで鱗がハラハラと落ちるべきはずである。

しかしながら、俺のウロコはそんな子供だましみたいな簡単な思いつきでは剥がれないんだと、逆に頭の硬直性ばかりを主張してしまう。

たとえば、目に「卵」が付いているのなら、誰もがそれに気付き外そうとするだろう。

あるいは、「鱗」を立たせろと謂われれば、天才と酔狂人だけが徒労を重ねることもあるだろう。

けれども、そこには″普通の驚き″が抜け落ちているのだ。

考えるための読書

人は、ほんの少しだけズレた位置から自分を取巻く世界がこんなにも変わって見えてしまうことに″wonder(驚き)″を見出せる生き物である。

短所の死角に長所が隠れてしまっているように、″wonder(喜び)″は些細なことの傍らにいつもじっと息を潜めている。

世の中には、ものの見方や発想法など、「考える」ことに関する書物が次から次に後を絶たない。

けれども、それらは玉石混合であると言わざるをえない。

役に立つ本がたくさんある一方で、頭が良くなったと錯覚をもたらす本も少なくない。

だがしかし、明石散人氏の『龍安寺石庭の謎』はそれらの″実用書″とは根底的に異っている。

驚きの書

明石氏は凡百の書の如く、これをやれば、これさえ知っていれば、「コロンブス」になれるとも、なれとも決して言わない。

ハウツーやノウハウの提示はない。

ただ″総ての人間はある意味「コロンブス」である″と主張する。

つまり、自ら「鱗」を落とし続けようとする者だけが「コロンブス」であると云うのだ。

「鱗」が落ちる落ちないはやがて微塵へと変わり果て、意味の彼方に消え入るだろう。

落とし続けようとする試行(voyage)に、終り=目的(land)などない。

明石散人=クリストファー・コロンブスは確言する。

″日常(everywhere)″こそが″航海(wonder)″に他ならない、と。

もしかすると、目と鱗が不可分である卵のような眼球の持ち主は、″石″に関するこの本を読めば、″固い″目玉ごと落っことしてしまうかもしれない。

だが、それもまた、ひとつの愕き。

否、切なる悦び。

水たまりの一滴

視座を与えてくれた書のひとつ。勉強になりますよ。                            

最新記事はこちら

  • この記事を書いた人
パドー1000

パドー1000

現役人事部長のパドー1000と申します。雑記blog「シンキング・パドー」を書いています。
カテゴリーは、人事・仕事・就活・受験・活字・映像・音楽・競馬・アート・ファッション・ライフ。
詳しいプロフィールへ

-活 字
-

Copyright© Thinking-Puddle , 2017 All Rights Reserved.