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村上春樹の「木野」とはカラフルな神話的世界。謎は謎のままに

投稿日:2016-12-03 更新日:

なぜ、村上春樹氏の「木野」に惹かれるのだろうか⇒

「女のいない男たち」が電子版で出版されたので、以前に紙の本で読んでいたこの短編集を久しぶりに読み返した。

傑作はいつ読んでも傑作です。

ミック
キーワードは蛇と猫
キース
俺達は?
ごんぞう
NOTHING

以下、内容に言及するため、ネタバレ注意にてお願いします。

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神話的世界

多くの人が気づいているように、これは神話世界を舞台にしている小説です。
以下、物語の基礎的条件について簡単に説明していきます。

水辺とはご存知のように、あの世とこの世の境界を象徴している場所です。
柳の木は水辺に生える植物であることから、あの世とこの世を想起させる植物として知られています。
蛇とは、邪悪の象徴であるが、小説中に記載されているように、両義的意味合いを強く持つ生き物です。

そして、柳の木は「矢の木」とも呼ばれ、その形状から、蛇が容易に連想され、両者は古くから結びついています。
また、舞台となる店は、そもそも主人公の伯母が喫茶店としてはじめたものを主人公が水商売のバーに店舗替えを行ったものであることを思い出すべきでしょう。

いずれも水に関することには変わりはありません。
すなわち、小説の設定として、両義的(善悪)な世界が舞台であるといいえるのです。
この両義的な世界がかろうじて、善の側に傾いていたのは、猫がこの店に住みついていたからに他なりません。

間違ってはならないのは、主人公のいる世界が善から悪に移行したということではないのです。

そうではなく、どちらにふれてもおかしくないこの両義的世界に主人公は生きざるを得ないということを作者はただ強調したいだけなのでしょう。

バランスを司る猫的存在

猫とはこの場合、善と悪のバランスをとるオモリであったはずです。
けれども、この猫が不在となることで、バランスは崩れ、悪の側に世界は傾いてしまいます。

それが、両義的世界の特徴であり、われわれのこの世界の「素顔」であるといえます。
これにより、主人公の木野は、今まで無自覚であった真相に気付かされるはめに陥ります。

バランスが崩れるとは次のような移行を指すのです。

「正しいことを行う」と「正しいことを行わない」にそれほど特徴的な差異がない相から、「正しいことを行わない」と「正しくないことを行う」にそれほど特徴的な差異がない相に、世界が移行してしまう。

これが、両義的な世界の恐ろしさなのです。

正しいことを行わないことが、罪となる。
これは、ユダヤ=キリスト教的世界観であることは言うまでもありません。

神田という存在

であるならば、神田(かみた)とは何者かという質問にすこしだけ答えることが可能となります。
神の田とは、神の世界にいるということを指すのです。

神そのものではないことに注意して下さい。

神田は、主人公を救うことができないし、そうはしません。
ただ、助言を、予言を、するだけなのです。

ということは、神ではない存在で、神の世界の住人。
つまり、天使です。

天使の役割

天使といえば、直ちに思い出されるのは、ヴェンダースの「ベルリン天使の詩」でしょうか。
この映画に出てくる天使はただ見守るだけです。

何らの手出しをしない。
これほどではないが、この小説の「天使」も限定的な関わりしかできないところは、同様の設定となっています。

雨は降っているし、降ってはいない

この小説において、邪悪なものからの守り神的存在であった柳の木は、バランスの崩壊とともに、蛇を産出したといえまいか。

蛇は決して柳の木と対峙するものではなく、何かの作用でそれは容易に変容してしまうのです。
それこそがわれわれの世界である、この世界の両義的特質であるのだろう。

そのことを示唆する記述が、魅力的な登場人物のひとりである常連客の神田の登場の場面に明確にみてとれます。

「雨も降ってもいないのに、また降り出しそうな気配もないのに、丈の長い灰色のレインコートを着ていた。」

両義的な世界においては、雨はいつも降っているし、常に降っていないのです。

神田は警告する

次の長い雨が降り出す前にここを離れるように、と。
言うまでもなく、長い雨により、その両義性は悪へと急勾配を下る。

この雨のエピソードは、神話的世界でおなじみのノアの方舟の伝説と地続きであろう。
このような神話的連関が、小説内のそこここに散りばめられている。

木野とは、神田との比較において、お分かりのように、人間世界を指す。
つまり、われわれのこの世界のことなのです。

世界と我々

木野という名の男が、自分の店の名を木野と名付けたが、名付けた瞬間に、その場所は自らと一体化してしまっています。

ゆえに、どこに行こうと木野(人間)は木野(世界)から逃げ切ることなどできない。
言い換えるならば、世界は両義的であると同時に我々自身も両義的存在であるという結論の確認であろうか。

主人公の部屋を、主人公の心を、誰(何)がノックをしているのかは、それほど問題ではありません。
ノックから逃れることができないことが、ここでは表現されているだけなのです。

絵葉書を投函する

主人公は、天使との約束を破り、絵葉書に心の裡を書き込んでしまい、投函します。
その約束とは、何も書かずに叔母に絵葉書を送付することであった。

何も書かない。書いてはいけない。
つまり、対話を予め禁じられているということが意味されているのである。

ユダヤ=キリスト教的世界観がここにも徹底されているとは言えないでしょうか。
約束を破ってしまう木野を、蛇に唆され、林檎をかじるアダムに二重写しにすることは、それほど難しくはないはずであろう。

叔母の存在

ここまできて、思い出されるのは、神田が主人公の叔母に頼まれて主人公の身に悪いことが起こらないように目を配ってほしいというセリフである。

この神田と叔母との関係性を延長すると、叔母は「神」という結論に達する。

であるならば、「木野」を収録するこの短編集のタイトル「女のいない男たち」は次のように読み替えられてしまうのです。
「女(神)のいない男(人間)たち」

神のいない世界はバランスを欠く、柳の枝が蛇であり、蛇が柳の枝である世界にほかならない。

シェイクスピアの魔女であれば、きれいはきたない、きたないはきれいと言うだろう。

そう、木野はわれわれ自身であり、われわれこそが木野であるのだ。

豊穣なる物語

すべての物語は、神話構造をその母とするが、すぐれた物語は多義的な解釈を可能とします。

これからも神話的世界を現代に移設するその手練手管に酔いしれたいものです。

 

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