海辺のカフカは今もなお座り込んだままでいるのか

投稿日:2016-11-22 更新日:

 

慰めのための文学⇒

「戦時」のような毎日を送っている。

大仰であるが、仕方がない。

そのような気分が継続している。

世事の疎ましさが咽喉元までせり上がりどうにもこうにも嚥下せぬことにはと、本箱に強引に手を突っ込んだ。

こういう時に決まって指先が触るのは、昭和十年から三十年のあいだに日本人が書き落としたエクリチュールである。

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戦争期の前後

それ以降も彼等は旺盛に筆を走らせてきたが、やはりその時分のものが今も色褪せずに、読めば体の其処ここに広がってゆく。

これはなにも日本という国に固有の事柄ではない。

戦争の前後の時期というものは書記全般に対し本人の思念を超えたところでなにものかが付与されてしまう。

そういうものであるらしい。

そうして小林秀雄と坂口安吾の対談を手に取れば、日付は昭和二十三年となっている。

文字を追いながら頭の中に漂っていたのは、その頃のもの書きは「ただ単に」原稿用紙に向かっていたのだなあという感心。

つまり、小説であるとか批評であるとか、そのような読み手側のジャンル別けの境界の線上をどこにも落ちずに仕事を推し進めていたのであろうなあという感慨ばかりである。

自らが放り出す

実際、坂口安吾だろうが武田泰淳だろうが「うまい」小説は書いていない。

小林秀雄にしたところでしばしば「批評」を溢してしまい「詩」になってしまう。

彼等の文心を私が欲するのは、この人たちが「自分で考え抜いたこと」をできればそのままにして、いたずらなテクネーを加えずに差し出すためである。

端的にいうと、文章がうるさくないのだ。

言い換えるならば、直裁的な目的と無縁な文章であるのが清々しいと言えようか。    

偶々、主人公の名前がそこにあればそれは小説と見なされる。

齧りづらい語句が羅列しているとそれは批評として流通した。

繰り返すが彼等は「その時期」、ただ「文」を書いていただけのことなのである。

同調するカフカ

ところでここまできて、『海辺のカフカ』のことが頭の一隅に顔を覗かせた。

村上春樹氏は今日まで物語りでなければ語れない真実を我々に伝えるべくストーリーを巧みに構築してきた。

してみれば、安吾や泰淳とは初めから違う処に立っていたはずだ。

けれども、この作品に自沈してゆくさなかに頭の底の辺りで休みなく聞こえていたのは、彼等に認められているのと同じ音色であったのだ。

生きた批評

村上春樹氏がそのデビュー以来、「自分で考え抜いてきたこと」が頁のあちこちで無造作に転がっているのである。

村上の中に居た「カラスの少年(生きた批評)」が漸く口を開き始めたためなのかもしれない。

だからこそ、この小説は私にとってスペシャルと言い得る。

なぜならいまは「戦時」であるのだから。

 

 水たまりの一滴

『海辺のカフカ』という題名を聞いてすぐに、安岡章太郎の『海辺の光景』に辿りついた。『カフカ』に描かれているのは、「第三の新人」と呼ばれた作家たちが余計な力を入れずに浮き彫りにした「剥き身の不在感」それ自体にほかならない。

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