四方田犬彦の筆力に本日も木っ端みじんな気持ちのよい朝

投稿日:2016-12-04 更新日:

 

小屋で見るこだわり⇒

できうる限り映画は「小屋」で観ようと常々思っていた時期があった。

小屋とは映画館のことを指します。

気取った物言いで大変恐縮です。

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映画のすべて

わたしにとって、映画とはスクリーンに映し出されるフィルムだけを指すのではなく、映画に纏わるすべてである。

映画をみるとは、ある意味、それを観ようと思ったその瞬間からすでに始っている。

→映画館に行く途中の車窓からの見馴れた景色。

→ちょうど目の前に座った他人の大きな後頭部。

→多くの笑い声と笑っていない自分とのずれ。

→館を出たあとに立ち寄り啜った珈琲の不味さ。

そういったもののすべてが映画なのだ。

わたしが体験したいのは、そのような〝オール・ザッツ・キネマ〝である。

本という名の小屋

だから、〝いい映画〝と〝わるい映画〝を分かつものは、先に述べたようにフィルムそれ自体だけということには決してならない。

が、書物の場合は大きく違ってくる。

そう、本は文章が〝全部〝なのだ。

頁を繰っていると、まあ当たり前のことなのだが、いろいろな文章に出くわす。

・いつまでも読んでいたい文章もある。

・二度と会いたくない文章もある。

前者も後者も、実のところ最近めっきり少なくなった。

どうしてだろう。

達意の文章

読み終わるのが惜しくなる文章は人によって異なるだろう。

が、わたしの場合、それは〝達意〝の文章ということになる。

ここで云う〝達意〝の文章とは、次のような文章を指します。

自分の考えを人によく解るように述べ尽くすために、これ以外には考えられないほどの最適さで一字一句が選び取られている文章。

そのような文に接すると、温泉に入った瞬間の体の奥底からしぼり出されてくる声にならない声と同じようなものが我知らずもれ出てきて、無条件に万歳をしてしまう。

わたしに白旗をあげさせたのは、今まででたった二人。

精神病理学者の木村敏氏とジャンルを超えた批評の実践者、四方田犬彦氏。

トラヴェリング・プレジャー

四方田犬彦が上梓する『旅の王様』と名付けられたこの一冊の書はいわゆる旅行記ではない。

これは、〝旅についてのあらゆる事柄〝、言い換えるならば、″ひとはなぜトラヴェルするのか″という問いをめぐり綴られた「随想」である。

けれどもそれは辛気臭く退屈な言説により成り立ってはいない。

その逆に、トラヴェリングの喜びに満ち溢れている。

したがって、頁をめくり終えたその後に、旅に出ようと思わない人間などいないはずだ。

移り動くことの自由なる感覚に導かれ、人はまだ見ぬ地へ、戻るべき場所へと誘われる。

そして「光を孕む小屋」へと歩き出す自分自身を見つけることだろう。

ああ、旅に出たい。

小屋に行きたい。

水たまりの一滴

彼の映画批評は、それはそれは面白いです。ぜひ一度ご賞味あれ。

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