「風と光と二十の私と」の良さをなんとかして伝えたいのだが

投稿日:2016-11-18 更新日:

 

安吾を嫌いな人はいない⇒

坂口安吾を嫌いな人にあったことがない。

彼の魅力は一言ではいい尽くせませんが、読めば直ちに理解できます。

最初の一行目から。

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圧倒的な肯定

無頼(新戯作)派のひとりと理解されているが、他の作家達とはやはり異なる「突端」に佇っている。

太宰治に触れるならば、アンビバレントな恋愛感情が直ちに喚起されるでだろう。

石川淳を紐解けば、奇妙な熱情を注入され、運が良ければ″文学通″になれる可能性が出てくる。

けれども、彼等が読者から掻い出すものとは異質の感情に、安吾に接する者は全身を統べられてしまうはずだ。

それは、安吾への「圧倒的な肯定」以外のなにものでもない。

わたしは、常軌を逸した強度で読む者を感電させる『堕落論』が安吾の最良部であると賛同する者の一人です。

と同時に、『風と光と二十の私と』という作品に抗い難く惹かれ、離れることが今もできないでいる。

ほっこりとする大伽藍

 かつて、詩人の三好達治は安吾を評して次のように言ったことがある。

― かれは堂々たる建築だけれども、中に入ってみると、畳がしかれていない感じだ ー

「堂々たる建築」を仰ぎ見れば、『堕落論』のような「大柱」だけが瞳を占拠するはずだ。

そのせいで「しかれていない感じ」がするのだろう。

しかしながら、詩眼が見定めているように、「畳」は「しかれていない感じ」が″するだけ″なのだ。

「畳」は間違いなく「しかれてい」る。

が、あるべきはずの″千畳″は″視えない″。

なぜならそれこそが、「安吾」なのだから。

幻の畳

例えば、太宰治は「家庭」を廃棄せんと生き急いだ作家である。

けれども、彼自身は常に読者にとって、″お茶の間″であった。

寛ぎ横になることのできる、at home であったのだ。

しかしながら、安吾という「堂々たる建築」の内で「寝転がること(惰眠)」は許されはしない。

安吾はいつも自己を野晒しにする剛力と同等の強さで読む者を突き放してきた。

人はいっとき、ただ「雨露」をしのぐことのみを許されてきたのである。

だが、その「伽藍」に一歩足を入れると、懐かしさに縁取られた涼やかな抒情性が体の隅々にまで浸み上がるのをすぐさまに解す。

目を瞑り、大の字になって、少時、伸びをするための″マボロシの畳″と結ばれるのだ。

その″一畳″こそが、『風と光と二十の私と』に他ならない。

美しい時間

この作品は二十歳であったかつての自分の一年間を四十一歳になった安吾が綴ったものである。

それは小学校の代用教員をした時分の思い出だけで織り上げられている。

教え子との間にとても美しい時間が流れているのだ。

その中につぎのような一節がある。

― 私は放課後、教員室にいつまでも居残っていることが好きであった。生徒がいなくなり、ほかの先生も帰ったあと、私一人だけジッと物思いに耽っている。音といえば柱時計の音だけである。あの喧騒な校庭に人影も物音もなくなるというのが妙に静寂をきわだててくれ、変に空虚で、自分というのがどこかへなくなったような放心を感じる。 ―

このような″思い″が躯の内をゆっくりと通り過ぎた経験を持たぬ者はいないはずだ。

それは凛としているが暖かい暈を持つ。

何度でも言おう。

安吾を嫌いな人は、いない。

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