Thinking-Puddle

現役人事部長の 雑記blog

肯定すれば肯定性が無条件に確保できると思うのは大変な思い上がりなんだが

投稿日:2017-08-06 更新日:

肯定的であることは絶対的な善ではない⇒

最近、肯定的であることを振りかざし価値観の押しつけあるいは他者の価値観を侮蔑・愚弄する言説が一定程度支持を集めている現象が散見されます。そのことに疑義を呈したいので以下意見を述べてみます。

以下はノウハウもスキルも得ることはできません。

興味がある場合に限り、覗いてみてください。


肯定の分類

肯定には二種類あります。

私的分類なので批判・批評は一切お断り致します。

絶対肯定と単純肯定。

  1. 絶対肯定
  2. 単純肯定

絶対肯定とは

「なになにでないとダメだ」という意見を敷衍するためにのみ表明される肯定の形態。

外形的には「なになに最高!」「なになにが絶対!」という表現形式が採用されている。

が、よくよくその理由(論拠)を聞いてみると、肯定されている以外の事物・方法・考え方・感想・意見を全面的に否定し、その存在を言説空間から殲滅あるいは、完膚なきまでに制圧しようという強烈な欲望が暴れていることが透けてしまう。

あな恐ろしや。

正義の業火に似ている。

肯定というフォームをとるがゆえに「あれはダメ」「これもダメだ」という否定性が前面に出ておらず、かえって感染力も強いので、賛同者もそのことに無自覚である場合がまあ多い。

そこがまた「たちの悪さ」を増長させている。

あなたも見たことがあるでしょう。

単純肯定とは

「なになにはいいね。以上」「なになには素敵だよ。以上」という押しの弱さが特徴的。

「ただいいものはいい」という肯定のスタイルであることから分かるように、他のものとの比較は一切ない。

ゆえに根拠、論拠が希薄となり説得性に著しく欠けるところがみられる。

いいという肯定の理由が煎じ詰めれば「それがいいからである」という、堂々巡り・同語反復のみがただただ繰り返されている。

「分かる人には伝わるでしょう」、もしくは「好きになってもらわなくても別に構わないし」という、あらかじめコミュニケーションを拒否しているような拗ね者のスタンスが時折見て取れる。

単純肯定の先に

私の場合、本ブログにおいては自分でいいと思うもの・よいと考えることしか書きたくない。

しかしながら、単純肯定というスタイルだけではうまく届かないので、できうるかぎり客観性や説得性を獲得しようと頭を捻っています。

それが成功しているのかしていないのかは、書き手の私にはどこまでいってもわからない事柄です。

絶対肯定に対する嫌悪

最近「絶対肯定」な論調を目にする機会が増えてきているように感じます。

特に「健康的な思考」とセットになって提示されているところが鼻につきます。

この場合の「健康的な思考」とは「健全な考え方」とは似て非なるものです。

健全な考え方とは中心化の絶え間ない回避運動です。

ところで、以前に絶対肯定的にある作品や存在を賞賛した過去を私も持ちます。

が、それが単純肯定の強化版であったことをこのエントリーを書きながら思い知ったところです。

単純肯定の純化に「絶対」という言葉を使用していたことは反省です。

肯定とは思いの外、難しい行為であり所作であったことが分かりました。

その意味で否定は案外に単純で楽観な仕業であるのかもしれません。

最新記事はこちら

  • この記事を書いた人
パドー1000

パドー1000

現役人事部長のパドー1000と申します。雑記blog「シンキング・パドー」を書いています。
カテゴリーは、人事・仕事・就活・受験・活字・映像・音楽・競馬・アート・ファッション・ライフ。
詳しいプロフィールへ

-ライフ

Copyright© Thinking-Puddle , 2017 All Rights Reserved.