Thinking-Puddle

現役人事部長の 雑記blog

大晦日に「決断」についてじわじわ考えてみる

投稿日:2016-12-31 更新日:

 

決断について考えてみる⇒

決断は早いほうだ。

食べるものを決める場面では、負けたことがない。

グズグズといつまでもメニューとにらめっこしている御仁と同席すると、昔は頭に血が上ったものだ。

が、いまはそんなこともなくなった。

年をとる事の効用のひとつであろうか。

しかしながら、しばしば拙速であった経験も過去に多数。

自業自得であるので、反省はするが、真面目に後悔したことは、ない。

全く威張れることではありません。

スポンサーリンク

即断即決ということば

決断もしくは、決断力のことを考えていて、「即断即決」という言葉を思い出した。

即の文字によって、決断という文字がセパレートされている。

このことから、次のように考えた次第である。

もしかすると、決めることと断つことは、違うのか?

つまり、決断とは一つの行為ではないのではないかという疑義だ。

極めてシームレスに見えながら、実のところ連続的な行為が一体化しているのではないのかと。

???

決めることと断つこと

決断という行為を分解してみよう。

断という行為がまずある。

これは、多くの選択肢、可能性をただひとつを除いて残し、それ以外のすべてを断ち切る行為を意味する。

自分との関係性をここで捨て去る。

葬り去るのだ。

この行為が最初に行われる。

次に、決めるという行為に移る。

決めるとは、唯一残った糸を掴み取るのかどうかを意味する。

従って、唯一残った選択肢を掴み取らない場合も考えられるということだ。

うんうん。

だんだん見えてきたよ。

優柔不断な思考とは

ここまで整理して、優柔不断な人たちにも実は2つのパターンがあることが理解できた。

断つことができないレベル

決めることができないレベル

そういうことか。

断つことができないレベル

これは、ある意味わからないでもない。

情報が不足しているのだ。

そして、物事を決める際に何を基準にするのかが理解できていない。

このような状態でものを決めれるわけがない。

なので、往々にして、感覚的、生理的、流行的にジャッジがなされる。

ゆえに、経験値を上げ、社会的習熟度が増すと、このようなレベルから開放される可能性が極めて高い気がする。

決めることができないレベル

唯一の選択肢を掴み取るか取らないかを決めることができないレベル。

はあ?

深刻だ。

というのも、原理的には、唯一に絞る段階でひとは悩むものであり、唯一を選び取るという行為は、一般的にはオートマチックな行為にほかならないからだ。

しかしながら、そこの一歩が踏み出せない。

というか、その一歩を超えることが途方もない労力を強いるという潜在的な恐怖を感じ取っているのであろうか。

理解不能状態。

逆に言うと、断つ段階で無理矢理にふるい落としていたということなのだろうか。

理解不能状態である。

なにが彼、彼女を堰き止めているのだ。

ということか

ここまできて、思い当たった。

決めることができないレベルのひとは、決めることができないわけではないのだ。

唯一を選択し、実はそれを掴み取っている。

なんの迷いもなく。

心配する必要はなんらなかった。

「決めない」という糸をしっかり握っているのだ。

なんだそういうことだったのか。

それなら、よく理解できるよ。

やれやれ。

目がかすみ、耳鳴りがする。心なしか吐き気もする。

 

というわけで、今後とも決断に関して不自由な方たちとは一切関係を立つと決断したいところではありますが、世の習い、浮世の義理。

即断即決とはいかないようで。

ありがとう2016年、はじめまして2017年。

グスン。

 

よろしければこちらもどうぞ↓↓

アナ・ウィンターも野村克也も結局は言っていることは同じだ

 

水たまりの一滴

優柔不断を肯定的に、好意的に語るのだけは勘弁してもらいたいなあ。

最新記事はこちら

  • この記事を書いた人
パドー1000

パドー1000

現役人事部長のパドー1000と申します。雑記blog「シンキング・パドー」を書いています。
カテゴリーは、人事・仕事・就活・受験・活字・映像・音楽・競馬・アート・ファッション・ライフ。
詳しいプロフィールへ

-ライフ

Copyright© Thinking-Puddle , 2017 All Rights Reserved.