東京物語、家族の一生の物語

投稿日:2016-10-23 更新日:

 

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小津安二郎の「東京物語」を久しぶりに観た。

もう、何度目だろうか。悲しく、切ない映画である。

世界の多くの映画人が今もなお、絶賛し影響を受け続ける傑作中の傑作。今日は、語りつくされた感のあるこの名作について少しだけ触れます。

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あらすじ

1953年に公開された本作品のあらすじは以下の通りです。

尾道から上京した年老いた両親とその子供たちとの関わりを通じて、家族の絆、親子の関係、老いることと死ぬこと、人の一生が静かに抑えたタッチで描かれています。

見終わった後に、多くの人たちが親孝行をしなければと強く思い、あるいは、親孝行の機会を永遠に失った者は後悔の念に苛まれ、ある者は自らの境遇と重ねむせび泣いてしまう。ここには時代を超え、国を超え、世界の誰もが思い当たるふしのある普遍的テーマが丁寧に取り扱われている。

尾道に暮らす老夫婦は、東京に住む子供たちを久しぶりに訪ねるために上京する。けれども、子供にはそれぞれ子供の生活が確立されており、十分な対応をしてやることができない。年老いた二人はある意味、子どもたちの日常にとって、違和なのである。

唯一の例外は、戦死した次男の嫁だけであった。血の繋がらない彼女だけが熱心に二人の世話をし、親切を尽くす。短い滞在の後、尾道に帰って直ぐに、老母が急死する。葬儀のために子供たちは尾道に集まるが、生活のために、いそいそと逃げるように皆、尾道を後にする。ここでも次男の嫁だけは例外的な対応を取る。そして、飄々とした父親の一人きりの日常は続いていく。

メモ

人を思いやる気持ちは血のつながりなどいささかも土台としていないことを逆説的に描いています。

何が描かれているのか

ここには、日本人の感性の露出ではなく、世界共通の家族のつながりと喪失が焼き付けられている。それゆえに、国を問わずこれほど大きな共感と賞賛を得ることができるのだろう。ここには明解に人生が凝縮した形で描かれている。しかしながら、それと同時に紛れもなく「家族の一生」が表出されている。「家族の一生」とはなにか?

家族の一生

赤の他人が一つ屋根の下に暮らすことから家族は始まる。やがて子供が産まれ、子供は成長し、それぞれ家庭を持ち、振り出しに戻るように二人きりになる。これが家族の一生のサイクルである。そして、見誤ってはならないのは、小津は意識的に戦後の核家族に焦点を当てているということだ。

戦前の大家族では二人きりには決してならない。戦前の場合は「家族の一生」ではなく、「イエの一生」だけが忠実に繰り返されてしまう。このような点に小津が極めて同時代的な映像作家であったその資質がみてとれるであろう。我々にとって「在りし日」を感じさせる彼の作品の多くは、OZUにとっては「今日ただ今」であった。

もう、お分かりの通り、家族の一生は幸せをスタートとし、子供の巣立ち、夫婦の死別という坂道を下る過程を経るサイクルである。異論もあるだろうが、右肩上がりに幸福度が増す家族の一生というものはない。ゆえに、そのピークは子供の誕生から中学校にあがるまでの期間であるといっても過言ではない。子供の可愛い盛りと幸福度は比例関係にあると言える。

そして、この映画のなかで孫との触れ合いが巧妙に回避されているのには理由がある。家族の一生において孫は決してメンバーでないことを明示するためなのだ。なぜなら、孫とは自分以外の別の家族(子供の家族)のメンバーであるのだから。

メモ

あくまで自然に、登場人物の役目役割が交通整理され、不必要な人物はただの一人も登場しません。

腕時計の意味するもの

映画の中で、葬儀のあとに、年老いた父親は、妻の形見である腕時計を未亡人である次男の嫁に手渡す。未亡人は感極まり号泣する。この場面はみる者すべてに訴えかける名シーンである。

財産というほどの財産ではない形見の品はまさに老母を象徴する一品であるがゆえに、彼女に引き継がれなければならないことは了解できる。われわれはそこに、義理の両親の優しさや思い出に突然強襲され、涙がとまらない未亡人の感情の激流を容易に認めることができる。

それと同時にわたしには次のような理由から未亡人が声をあげたのだと思わざるを得ないのだ。

愛する夫の戦死によって、自らの家族の一生を永遠に奪われたその事実を腕時計の針の進みの中に決定的に見てしまったのだと。

針は動き続けているのだが、義理の母親の人生が打ち止められたことと自らの家族の一生は止まり続けたままであることを二重写しに残酷にも思い知らされてしまったのだと。

メモ

少しだけ声を大きくして泣き崩れる演出がなされていなければ、容易に見過ごしてしまう多層的な演出です。

実生活において家族の一生と無縁であった男が、家族の一生の影の部分に光を当て、完璧なまでにフィルムに焼き付けたことは皮肉であるのか、必然であるのか。いずれにしても、映画という家族を持った男は例外的に最後まで幸せな家族の一生の当事者であり続けたのだった。

 

水たまりの一滴

この映画において、従来の父と娘という視点を捨て、義父と嫁という視点を導入した設定は看過できない。

 

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