ドラマカルテット、人魚姫のもとにピノキオとピーターパンとアリスが集合したのは偶然ではない

投稿日:2017-02-18 更新日:

噂に違わぬ傑作⇒

毎週欠かさず見ています。

大人のラブストーリーXヒューマンサスペンス。

ドラマカルテット

今クールのTVドラマは見逃せない作品がたくさんありますが、その中でも一番楽しみにしていた作品です。

次回より第二章突入ということで、アッと驚く展開が飛び出してくることだと思います。

夫さん役に宮藤官九郎さん見参と、既にしてサプライズですが、楽しみは膨らむばかりです。

以下は、現時点までの感想について、書いてみました。

おそらく、観終わったあとにもう一度、何か書くかもしれません。

何か書いててみたくなる良作。

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テーマ

以下、番組ホームページより抜粋です。

本作の見所、コンセプトが簡潔にまとめられています。

ある日、4人は「偶然」出会った。
女ふたり、男ふたり、全員30代。
4人は夢が叶わなかった人たちである。
人生のピークに辿り着くことなく、ゆるやかな下り坂の前で立ち止まった者たちでもある。
彼らはカルテットを組み、軽井沢でひと冬の共同生活を送ることになった。
しかし、その「偶然」には、大きな秘密が隠されていたーー。

うーん、見たくなりますよね。

登場人物たち

主人公は次の四人。

♦巻真紀(松たか子)、夫に蒸発された内向的な性格の主婦。プロの演奏家を目指し叶わなかった挫折組。

♥世吹すずめ(満島ひかり)、子供の頃に父親と詐欺事件を起こし、心に傷を持つ不思議系。

♠家森諭高(高橋一生)、元役者の無職、離婚歴あり。

♣別府司(松田龍平)、高名な音楽一家の中で才能に恵まれなかった長男。甘いものが苦手でドーナツ会社に勤務。

室内劇を前提とした脚本であるので、芸達者が集結しています。

満島さんの演技力の高さは以前より定評がありますが、高橋さんの離婚して離れている息子とのやりとりをみていると、この人も負けていないということが明瞭に理解できます。

と同時に、この二人の演技をたんたんと横綱相撲の如く正面から受ける松さんと松田さんの安定感はやはり大したものだと思います。

キャラクター付け

大人の童話のようなドラマ世界を見せられると、勝手にキャラクターを当てはめたくなるものです。

わたしは、次のようにダブらせながら毎週見てしまっています。

巻真紀(松たか子)は、人魚姫。

決して愛されることのないポジションでありながら、心の底から愛することを願う。報われることのない身は自己卑下から自己犠牲へと昇華してしまう予感に満ちている。

世吹すずめ(満島ひかり)は、不思議の国のアリス。

好奇心と臆病が同居し、どこまでも発展途上であり、正直の意味がつかめぬまま自分に正直に生きてしまう。

家森諭高(高橋一生)は、ピーターパン。

大人になりきれない、永遠の未成熟者は責任を軽やかに回避し、生活を避けながら、奔放を気取る。

別府司(松田龍平)はピノキオ。

我慢を原理原則とし、人間(才能)に似ているけど人間(才能)ではなく、矛盾だらけの生を縫い取りながら、静かに佇む。

30代とは、ある意味、人魚姫であり、アリスであり、ピーターパンであり、ピノキオであるといえます。

しからば、20代や40代がどれほどソリッドで、めりはりがついているかといえば、そんなことはぜんぜんありません。

坂の手前は、まだ夢の切れ端が漂っているものなのです。

時間の脱臼

彼らが童話的キャラクター色を強めているように見えてしまうのは、成長を宙吊りにされている、あるいは自ら宙吊りにしている、そのせいからでしょうか。

そのことを考える上で参考となる象徴的なシーンがこれまでに繰り返して二度登場しています。

蒸発した夫さんの靴下をめぐる巻と別府のやり取りの場面です。

リビングに脱ぎ捨てられたままの夫の靴下は、恋敵を名乗りたい別府にとってはただのゴミであり、何も決着がついていない巻にとっては日常そのものです。

自分と次のステップに進むことを要求する別府は、なかば強引にゴミ宣言をしますが、かえって巻の気持ちは明確な形をとり、心の殻を固くします。

セリフが鮮明さを極めるこのシーンにより、同時に次のことも顕在化されます。

カルテットの4人にとって、既に時間は脱臼しているのだ、と。

時間の脱臼とは、「人生の時間」と「生物学的な時間」が何かの加減で外れたままの状態を意味します。

すなわち、生物学的な時間から人生の時間が外れたまま、「異なる時」が刻まれているのです。

  • 巻は、夫が蒸発した時から、夫との時間が停止し、その先に進めないために過去に遡行していきます。
  • すずめは、父親との過去が消えないままに、その頃の周りをぐるぐると廻り続けています。
  • 家森は、引き換えられなかった宝くじという牢獄からいつでも出ることができるのに、決して出ることができません。
  • 別府は、幼少の頃に才能を突きつけられ、音楽を目指す者にとってある意味、死後のような世界を生きています。

外形的には、過去に絡め取られてるとも思える生き方のようですが、それほど簡単ではなさそうです。

なぜなら、この4人にとって、あるべき本来の生がある地点で全く時を刻んでいないからです。

毎年、戸籍の上では年が重なっていくのですが、それが人生の道行きとは隔絶した状態が進行します。

時間を脱臼した者たちは、ある種、永遠の生を生きているようなものです。

その代表がわれわれに馴染みのある物語りの主人公たちなのです。

4という数字

タイトルであるカルテット(弦楽四重奏)から4という数字が特別な意味を持つことは明らかです。

脚本家や製作者がそこにどのような意味を込めたのかは正確なところはわかりかねます。

しかしながら、奥行きの深いドラマゆえに、いろいろな解釈が許されるはずと考えます。

巻は、二人であることが常態である夫婦関係に失敗し、姑との二人関係にも亀裂が生じています。

すずめは、唯一の家族である父親との二人きりの関係が暗礁に乗り上げ、人間関係全般にうまく距離をとれなくなります。

家森は、親子三人という幸福な時間を自ら放棄せざるをえない現実にうまく馴染めません。

別府は、ファミリーにおける居場所がなく、一人でいることにも慣れすぎてしまいました。

1でもなく、2でもなく、3でもなく。

そのような彼らが4を求めたことは、ある意味、偶然ではなく必然であったはずです。

4という呪縛

第五話の4にまつわるエピソードは象徴的であり、あまりにも残酷です。

祖父の別荘を出ていってくれないかと親族を代表して才能ある弟は別府にほのめかします。

そして、3人が無職であることが退去できない経済的理由であると判断し、彼らに仕事を紹介します。

しかしながら、それを知るのはあとになってからです。

あくまで、良家の出らしくスマートに手を回します。

与えられた仕事に納得がいかないながらも、自らの境遇を十分認識し仕事は一応やり遂げます。

弟に頼まれ彼らに仕事をまわした音楽関係者は、彼らを見送ったあと、吐き捨てるように言います。

志を持った三流は四流である。

どこまでも4という数字から彼らは逃れることができないのでしょう。

四元素

彼らのキャラクターを4という数字から今一度見返してみましょう。

四元素とは、世界の物質は火、空気、水、土の4つの元素から構成されるとする古くからある思想です。

弦楽四重奏(世界)を構成する4つの要素を4人に当てはめてみるとすれば、次のような感じでしょうか。

巻真紀(松たか子)は、土。

固体的状態を現しますが、離れてももとに戻る性質を帯びています。旦那さんとの復縁を願ってやみません。

水(別府)の落下を止める作用も有しています。別府からの気持ちを容赦なく遮断します。

世吹すずめ(満島ひかり)は、空気。

軽やかさを持ち、同様の揮発性に富む火(家森)の力を弱める働きを持ちますが、今のところ決定的な働きはしていませんね。

家森諭高(高橋一生)は、火。

絶対的な軽さを持ち、激しい気質がある。軽薄さと頑迷さが喧嘩せず同居している。

彼の場合、火は火でも青白き炎ですね。

別府司(松田龍平)は、水。

水と火は対象的でありながら、補完的関係にあり、互いに惹かれ合っている。

水は女性的特徴を持ちますが、別符の中性的魅力の底に流れているのはきっと水的性格なのでしょう。

そして、この4つの要素は関係し、サークルを作り、ある意味、循環、転生します。

火は凝結して空気となり、空気は液化し水となり、水は固化し土となり、土は昇華し火となる。火は・・・・。

この作用の方向を興味や愛情のベクトルとみなすならば、これまでの展開で以下のベクトルが既に示されていることになります。

  • 火(家森)から空気(すずめ)への雰囲気が醸し出すよろめき。
  • 空気(すずめ)から水(別府)への大胆なでストレートな愛情表現。
  • 水(別府)から土(巻)への不器用で愚直な告白。

これでいくと、土(巻)から火(家森)へのアプローチがまだ表現されていません。

しかしながら、夫が火的要素が強いキャラの予感がしますので、代替的行為はすでに表現されているといえるのかもしれませんね。

ドーナツホールの意味

自分たちのカルテット名を「ドーナツホール」とした理由は明瞭には描かれていません(もしかすると私がセリフを聞き逃しているだけなのかもしれませんが)。

しいてあげるとすれば、別府の勤め先がドーナツ会社であることが由来であると想像できます。

脚本家は、なぜこの名前を採用したのかをこれから先明らかにするのかもしれませんし、しないのかもしれません。

しかしながら、極めてシンボリックな命名にすこしだけ以下に触れます。

ドーナツホールは、ドーナツをドーナツたらしめる象徴であるにも関わらず、その穴だけを取り出し、指し示すことは物理的に不可能です。

そこに示されているのは、不在の圧倒的なまでの存在感です。

何も無いがゆえに、ないことの意味が強調されてしまっています。

もちろん、この穴を塞いだり、この不在を埋めることはできません。

なぜなら、塞いでしまう行為自体が、ドーナツそれ自体を否定することになるからです。

穴のないドーナツはドーナツではありません。

このことが彼らの存在性に光を当てているとは言えないでしょうか。

才能や愛情や夢や職の不在こそが彼らを彼らたらしめ成立させているのです。

しかしながら、欠落を抱える四人が集まったとしても、互いの穴を補い合うことなどできません。

穴それ自体が彼ら自身であり、同時に自分の穴は自分で埋めるしか方法がないからです。

ただ、4人で演奏するときにだけ彼らは彼ら自身から自由になれます。

逆説的な生を生きざるを得ない四人の行方にこれからも目が離せません。

水たまりの一滴
ジョーカーの来杉有朱がどう絡んでくるか楽しみです。

 

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